Standardizing biology laboratory curriculum in health education: a blueprint for European undergraduate programs.
Nicolaou, S.A., Nicolaou, P., Dafli, E., Bamidis, P.D., Puig, B., & Lazar, G. (2025).
Advances in Physiology Education, 50, 57-64. doi:10.1152/advan.00137.2025
https://journals.physiology.org/doi/abs/10.1152/advan.00137.2025?af=R

研究の背景と必要性
WHOは「Global Strategy on Human Resources for Health: Workforce 2030」において、医療教育の標準化の必要性を強調している。グローバル化が進む現代において、以下の理由から統一カリキュラムが求められている:
生物学は医学、薬学、看護学などの基礎科目として位置づけられており、その実験教育の標準化は特に重要である。しかし、現状では各大学における実験教育の実施状況や内容に関する包括的データが存在しなかった。
研究方法
調査対象:
- 28のヨーロッパ諸国
- Times Higher Education世界大学ランキングに基づく各国上位大学
- 最終的に138大学を調査
対象プログラム:
- 医学(主に6年制)
- 薬学
- 看護学
- 生物学
- 生物医学
- その他関連プログラム
データ収集:
主な調査結果
プログラム別の実験実施状況
分析の結果、プログラムによって実験教育の統合度に大きな差異が認められた:
- 生物学専攻:すべてのプログラムが基礎生物学を含み、50%が実験を実施
- 薬学:ほぼすべてが基礎生物学を含み、50%が実験を実施
- 医学:多くが基礎生物学を含むが、実験実施は50%未満
- 看護学:約半数が基礎生物学を含み、実験実施は約25%
- 生物医学:ほぼすべてが基礎生物学を含むが、実験実施は約25%
この結果は、医療系学部における実験教育の統合に大きなばらつきがあることを示している。
最も頻繁に実施されている実験項目
87種類の実験項目から、使用頻度に基づき上位16項目が選定された:
- 顕微鏡観察(光学顕微鏡)
- DNA分離とPCR
- DNA断片のサイズ分離:アガロースゲル電気泳動
- 細胞分裂(有糸分裂と減数分裂)
- 細胞構造と機能—浸透圧(植物・動物細胞)
- 実験室安全(実験報告書/器具の取り扱い)
- 基本実験器具の使用(ピペット、天秤、pH計、遠心機、分光光度計、標準溶液調製)
- 生体分子の同定試験
- 細胞代謝—酵素活性(pHの影響)
- 細胞代謝—酵素活性(温度の影響)
- 電子顕微鏡
- 生物統計学入門
- メンデル遺伝学と遺伝問題
- 微生物培養と増殖
- 制限酵素によるDNA消化
- 細胞培養
提案された標準カリキュラム
本研究では、調査結果に基づき、2学期制(各学期7-8実験)の標準カリキュラムを提案している。この配列は教育学的に論理的な技能と知識の進行を保証するように設計されている。
第1学期:基礎的スキルと知識
- 実験室安全:安全プロトコルと器具取り扱いの基礎確立
- 基本実験器具の使用:学期を通じて使用する基本技術の習熟
- 光学顕微鏡:観察スキルと細胞構造理解の発展
- 細胞構造と機能(浸透圧):細胞生物学のより深い理解
- 生体分子の同定:代謝研究の基礎となる生化学的知識
- 酵素活性(pHの影響):代謝過程と酵素動態の導入
- 酵素活性(温度の影響):代謝過程と酵素動態の継続
- 電子顕微鏡:光学顕微鏡との比較による細胞成分理解の深化
第1学期は、適切な安全プロトコルと器具取り扱いの基盤を確立することから始まる。基本的な実験器具の習熟を経て、光学顕微鏡による観察スキルの発展へと進む。浸透圧実験は細胞生物学のより深い理解を提供し、生体分子の同定は代謝研究の基礎となる生化学的知識を構築する。酵素活性実験は代謝過程と酵素動態を導入し、学期末の電子顕微鏡で細胞成分の理解を深める。
第2学期:応用と分子生物学技術
- 細胞分裂(有糸分裂と減数分裂):より高度な遺伝学研究への準備
- 生物統計学入門:実験データ分析に必要なスキルの獲得
- メンデル遺伝学と遺伝問題:細胞分裂の概念構築と遺伝原理の導入
- 微生物培養と増殖:微生物学関連分野の実践的スキルと知識
- DNA分離とPCR:より高度な分子生物学実験への準備
- 制限酵素によるDNA消化:DNA解析のための分子生物学技術
- DNA断片のサイズ分離(ゲル電気泳動):DNA断片の解析方法
- 細胞培養:細胞生物学と分子技術の実践的統合
第2学期は細胞分裂の研究から始まり、生物統計学で実験データ解析のスキルを習得する。メンデル遺伝学は分子生物学技術への準備となり、微生物培養は実践的スキルを提供する。DNA分離とPCR、制限酵素消化、ゲル電気泳動という一連の分子生物学技術を学び、最後に細胞培養で細胞増殖と維持の実地経験を積む。
この配列により、基礎から応用へと論理的に進行し、各実験が前の実験で学んだ概念とスキルを基盤とする包括的で統合的な学習体験が提供される。
学習目標と成果
提案されたカリキュラムの学習目標は、Bloomの改訂版タキソノミーの行動動詞を用いて策定され、Bologna Process、Tuning Educational Structures in Europe、Vision and Changeなどの国際的教育フレームワークに準拠している。
3つのカテゴリー
1. 知識と理解(Knowledge and Understanding)
- 細胞構造、機能、代謝、細胞分裂、遺伝学にわたる中核概念の説明
- 標準的な生物学実験技術の理論的基盤と手順段階の記述
- 実験室安全基準、危険シンボル、廃棄物処理に関連する倫理的配慮の認識
- 光学顕微鏡vs電子顕微鏡など、異なる調査ツールの応用と限界の比較
2. 実践的スキル(Practical Skills)
- 顕微鏡、ピペット、天秤、遠心機、分光光度計などの基本実験器具の安全かつ正確な操作
- 適切な個人防護具(PPE)の選択と基本的緊急対応手順の実行を含む優良実験室実践の一貫した適用
- スライド調製、希釈と標準溶液調製、定性試験結果の解釈を含む実地実験の実施
- 実験器具の校正と保守手順の実行および実験データの正確な収集と記録
3. 横断的スキル(Transversal Skills)
- 新しい手順のリスク評価、技術における一般的エラーの特定、実験問題のトラブルシューティング、効果的な是正措置の提案
- 生物学実験に関連するグラフまたは統計データの収集、整理、作成、解釈
- 数学的原理を利用した生物学的問題の分析と解決
- 対照実験プロトコルの設計、科学原理の実世界シナリオへの適用、科学的形式での実験選択の正当化
- 適切なデジタルツールを使用した、書面、視覚、口頭形式での科学的方法と知見の明確な伝達
すべての実験に共通する能力
カリキュラムでは、個別の実験に明示されていないが、すべての実験で育成される能力も重視している:
- 協働とチームワーク:2人以上のグループでの実験実施、役割のローテーション
- 成果発表の多様性:実験報告書、デジタルポートフォリオ、ポスター、口頭発表、アプリケーション作成
- ピアレビュー:全過程を通じた相互評価の統合
- デジタルコンピテンシー:シミュレーションとオンライン実験の統合、デジタル実験ノートの使用、実験前のバーチャル演習
- AI活用の批判的思考:AIツールの限界と信頼性に関する議論、批判的アプローチの促進
生理学教育との接続
本研究の重要な意義の一つは、生物学実験が生理学教育の基盤を形成することである。提案されたカリキュラムは、細胞、分子、システムレベルでの生理学的システムの理解を直接支援する実験的・概念的基盤を確立する。
具体的な接続例
浸透圧実験→腎機能と体液バランス
- 膜輸送と水ポテンシャルの実地体験
- 腎機能、体液バランス、心血管動態の理解に直結
- 学習目標:細胞構造と機能の理解(A-LO1, A-LO3)、実践的技術(B-LO2)、定量的推論(C-LO6)
細胞培養→組織適応と免疫応答
- 環境変化とシグナル分子に対する細胞応答の観察
- 組織適応、免疫応答、治療介入の実験的基盤
- 学習目標:細胞応答の理解(A-LO1)、培養技術(B-LO7)、問題解決(C-LO4, C-LO5, C-LO6)
顕微鏡観察→組織学と病理学
- 光学顕微鏡と電子顕微鏡による細胞・組織構造の観察
- 組織学、病理学の視覚的理解の基盤
- 学習目標:観察技術(B-LO2, B-LO3)
これらの生物学実験を体験学習に組み込むことで、学生は高度な生理学コースを理解するために必要な技術的能力と分析的思考スキルの両方を発達させる。このアプローチは、現代の生理学教育における中核能力の重視と一致し、学生が生理学的システムを基礎となる生物学的基盤のレンズを通して理解できるよう準備する。
さらに、生物学実験は生理学教育の中核能力を直接支援する:
- データ解析と実験デザイン:神経制御、ホルモンフィードバックループ、心血管動態などのシステムメカニズムの理解を支援
- 酵素動態:代謝過程を支える定量的原理の導入
- 微生物実験:免疫生理学に重要な宿主-病原体相互作用の理解深化
- 定量的推論とデータ解析:浸透圧、酵素動態、細胞培養の学習目標に組み込まれ、生理学的データの解釈に不可欠
実施上の考慮点と柔軟性
PBLカリキュラムへの統合
提案されたカリキュラムは柔軟でモジュラーであり、教育者はより広範なPBLサイクル内で実験を実施したり、必要に応じて1学期に凝縮したりできる。すべてのカリキュラムが2学期の生物学実験を組み込むわけではないことを考慮した設計である。
バーチャル実験室の活用
時間的または経済的制約のために物理的実験室を提供できない場合、カリキュラム開発者はバーチャル実験室の組み込みを検討すべきである。COVID-19パンデミック後、バーチャルシミュレーションの進歩により、高品質の実験室訓練が費用対効果が高く、物流的に柔軟な形式でアクセス可能になった。
バーチャル実験室の利点:
- インタラクティブで没入型の学習体験の提供
- 実世界の実験室環境を模擬
- 制御された無リスク環境での実験実施、変数操作、結果観察
- 物理的資源とスペースの必要性を削減しながら高品質教育コンテンツを提供
- 地理的・社会経済的地位に関わらず、すべての学生に実践的実験室経験の機会を提供
活用方法:
- 実験室に入る前の安全な環境での学習
- クラス内外でのグループ演習
- 実験計画の練習のための実験前演習
- 対面実験室教育の代替または補完
デジタルツールとAIの統合
デジタル能力の重要性が高まる中、学生はシミュレーションとオンライン実験を学習に組み込むべきである。
推奨される取り組み:
- デジタル実験ノート:観察と結論の文書化
- バーチャル実験前演習:実験計画の練習による学習支援
- AIツールの批判的使用:チャットベースAIや分析ソフトウェアを科学的文脈に適用する際の限界と信頼性についての議論を組み込み、学生が盲目的に依存するのではなく批判的にアプローチすることを確保
研究の限界
本研究にはいくつかの限界が存在する:
- シラバスの入手可能性と詳細度:すべての大学がオンラインで詳細なシラバスを公開しているわけではない
- 言語障壁:非英語シラバスの解釈にGoogle翻訳を使用したため、ニュアンスが失われた可能性
- 学習成果の記述の多様性:シラバス間で学習成果の伝達方法が異なり、比較が困難
これらの限界は、医療カリキュラムにおける生物学実験の統合が本研究で過小評価されている可能性を示唆している。
今後の研究の方向性
今後の研究では、ネイティブスピーカーや教育翻訳の専門家との協力により、これらの限界を克服することが望ましい。また、以下の点に焦点を当てるべきである:
- カリキュラムへの生物学実験の統合の最適化
- 多様な教育文脈における提案カリキュラムの検証
- 教育戦略の洗練による、より堅固で統合的な学習体験の提供
- 相互接続された世界の課題に対処できる有能で熟練した医療専門職の育成
医学教育への示唆
本研究が医学教育にもたらす示唆は多岐にわたる:
1. カリキュラム設計の指針
2. 国際標準との整合性
3. 生理学教育との連携強化
4. デジタル時代への対応
- バーチャル実験室の効果的活用
- AIツールの批判的使用能力の育成
- デジタルポートフォリオによる学習の可視化
5. 教育の公平性
- 地理的・経済的制約を超えた高品質教育の提供
- バーチャルツールによるアクセシビリティの向上
- グローバルな健康課題への対応能力の育成
日本の医学教育への適用可能性
本研究で提案されたカリキュラムは、日本の医学教育にも適用可能である。特に以下の点で有用と考えられる:
- 国際認証への対応:JACMEやWFMEの基準との整合性確保
- モデル・コア・カリキュラムとの統合:日本の医学教育モデル・コア・カリキュラムにおける基礎医学教育の具体化
- OSCE等の実技試験:標準化された実験技術の評価基準の明確化
- 国際的学生交流:留学生受け入れや日本人学生の海外派遣における教育内容の整合性確保
ただし、日本固有の教育文化や医療システムとの調和を図りながら、柔軟に適用することが重要である。
結論
本研究は、ヨーロッパ28カ国138大学の大規模調査に基づき、医療系学部における生物学実験カリキュラムの標準化を提案した画期的な試みである。提案された2学期制カリキュラムは、以下の特徴を持つ:
- 体系性:基礎から応用へと論理的に進行する16の実験項目
- 国際標準準拠:Bologna Process、Tuning、Vision and Changeとの整合
- 実践的有用性:知識、実践的スキル、横断的スキルのバランスの取れた育成
- 柔軟性:PBLカリキュラムへの統合、バーチャル実験室の活用など多様な実施形態に対応
- 生理学教育との連携:分子レベルから器官システムレベルへの橋渡し
医学教育のグローバル化が進む現代において、生物学実験の標準化は単なる教育内容の統一ではなく、グローバルな健康課題に対応できる医療専門職を育成するための基盤となる。地理的場所に関わらず一貫した高品質教育を提供し、国際的な学生・教員交流を促進し、最終的には世界中の人々の健康と福祉の向上に貢献することが期待される。
日本の医学教育者にとっても、本研究は国際標準に準拠したカリキュラム開発の重要な参考資料となるであろう。国際認証への対応、モデル・コア・カリキュラムの具体化、実技評価基準の明確化など、多くの場面で活用可能である。今後、日本の文脈に合わせた適用と検証が期待される。